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2010/03/03
先日ふとしたきっかけから、お芝居を観に行く機会がありました。
舞台観覧なんて学生時代に受けた芸術鑑賞の授業以来。
新鮮な体験に対する期待と若干の緊張とを抱えて座席へ着くと同時に、寺山修司の戯曲とあっては単純明快なストーリーでない事も覚悟していたのですが、終演時の感想は予想を遥かに上回る驚き。
一言で表せば、
「え?そこで終わり?」
隣で観劇していた友人のみならず、その場にいた大多数の人が同様に狐につままれたような顔をしていたので、
腑に落ちなかったのは私だけじゃないんだ…
と妙な安心感を覚えながらパンフレットを繰ると、主演女優のインタビューにまで『演じている私自身も理解できていないのだから観ている人たちも分からなくて当然』といった趣旨が書かれている始末。
そう言えば、誰でも一度は国語のテストで目にしたであろう「この時の作者の心境を答えなさい」という設問。
例え高名な評論家の先生が推察しようと、作者がエッセイで当時を語ろうと、真実は本人しか知り得ないし、もしくは深層意識に紛れて当の本人ですら答えられない場合もあるのでは?と常々疑問に感じていた事も思い出したりして。
カタルシス不足でもやもやしつつ、「これは三次元の詩だから、常識で理解しようと悩むのは無駄に違いない」とやや強引に自分自身を納得させながら劇場を後にしたのでした。
絵画や音楽、詩などの芸術作品に於いては、敢えて答えを用意せず観衆へ判断を委ねる場合が多々存在します。
受け手側にとっても、五感を使って想像力をフルに働かせる事は精神的に疲れる反面、知的好奇心を刺激される楽しい経験にもなり得るもの。
しかし、実生活で同じ事を求めても単なるコミュニケーション不足に終わりがちです。
「○○と言っているのだから汲み取って」「△△したから伝わっただろう」は、あくまで一方通行でしかありません。
思えば職場でもプライベートでも、何度も説明したから理解してもらえたはず!と勝手に納得していると、後から確認すれば要点の半分も伝わっていなかったり、自分の意図と全く違った解釈をされていたりで、伝える事の難しさを痛感する場面もしばしば。
ですが、そこで終わらせずに相手の理解度を探り、「どうすれば伝わるのか」「分かってもらえるのか」を試行錯誤しながら意思疎通を図る事こそが大切なのではないでしょうか。
無線機器では送信のみ受信のみの存在も当然あってしかるべきですが、人間として社会に暮らす以上、私は送受信一体でありたい、と改めて振り返った一幕でした。